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笑顔の発信地
俺たちは理由もなく笑い合い、休み時間を終えた。
2時限目がはじまってからも、俺の上機嫌はずっとつづいていた。
理由もなく楽しくてハッピーな気分だった。きっと賢策とカツオもおなじにちがいない。
いや、ふたりとも俺より先にこの状態になってたんだ。
遅刻せずにきたふたりは1時限目の前に上機嫌をはじめていて、だから恥ずかしげもなく俺に会うなり満面の笑顔でせまってくることができたんだ。
暮咲さんの後ろ姿を見た。
いつもだったら見ると少し切なくなるうつむいたその姿も、なぜだろう、いまはひたすらに愛(いと)しく思える。
俺は、授業を聞いてるフリをしながら、もうひとつの上機嫌テクニックを実践(じっせん)した。
賢策が「前戯」とか「マスターベーション」とか言ってたやつで、気分がよくなることをイメージする方法だ。
昨日とおなじように、俺は暮咲さんの笑顔を思い浮かべた。
たった一度だけ、俺に見せた笑顔――口もとがわずかにほころんだだけの小さな笑顔だけど、確かに俺に向かって笑ってくれたんだ。
そんなことをしているうちに、俺の気分はますますハッピーになっていった。
おかげで顔がにやけてしまうのを抑(おさ)えるのにひと苦労だった。
楽しそうなところに群がるのは人間という生き物の習性らしい。
俺たち3人は、次の休み時間も上機嫌モードで笑い合っていたんだけど、次第(しだい)にクラスメートたちが俺たちのところに集まってきて、気がつくと人だかりができていた。
賢策のまわりは女子でいっぱいになっていた。
賢策はもともと人当たりのいい性格ではあるんだけど、『なんでもスマートにこなすイケメン』というキャラクターのせいでふだんは近寄りがたい雰囲気(ふんいき)をただよわせている。
だからこそ賢策のほうからモーションをかけると女の子は安心してあっさり心を開いてしまうんだけど、今日は女の子たちのほうから積極的に話しかけている。
まあ、あれだけ機嫌よく笑っていれば警戒心もなくなるよな。
そんな感じで賢策のまわりには女子の輪ができあがり、楽しそうにはしゃいだ声が飛び交っている。
カツオのまわりには男子の輪ができていた。
何やら格闘技の話で盛りあがっている。
「歴代最強のプロレスラーは誰だ?」という議論になり、
ジャイアント馬場(ばば)だ、
アントニオ猪木(いのき)だ、
前田日明(まえだ あきら)だ、
三沢光晴(みさわ みつはる)だ、
武藤敬司(むとう けいじ)だ、
パウンド・フォー・パウンド(同階級という仮定)なら絶対に初代タイガーマスクだ、
とそれぞれが主張し、なかには「鉄の爪フリッツ・フォン・エリックだ!」とかたくなに言い張るマニアックなやつもいたりして、すごく盛りあがっている。
俺のところにも男子がたくさん集まってきて、たわいのない世間話(せけんばなし)をしては、たいしておもしろくもないはずなのに、みんなで大笑いした。
そんな感じで俺たち3人は『笑顔の発信地』と化したんだ。
俺は、ちらっと暮咲さんを見やった。
休み時間だというのに席に着いたまま顔をうつむかせている。
ひとりぼっちでいる暮咲さんの後ろ姿を見て、俺は上機嫌な自分が少し後ろめたく思えた。
休み時間になるたび、俺たちのまわりには人がいっぱい集まってきた。
俺たちは一日でクラスの人気者になっていた。
授業が終わって掃除の時間になった。
昨日は暮咲さんとカツオに押しつけて当番の連中はみんな帰ってしまったけど、今日は全員残っていた。
カツオが人気者になったことで男子の当番が協力的になったのと、賢策が「責任感のない女の子って嫌いだな」と発言したことで、クラスの女子が責任感に目覚めたからだ。
これで昨日みたいに手伝う必要がなくなったわけだけど、正直なところ、俺は複雑な気持ちだった。
昨日みたいに手伝ってあげたら、また暮咲さんに「ありがとう」って言ってもらえたかもしれないのに……。
賢策と一緒に、カツオを廊下で待つことにした。
俺は、教室のなかをさりげなく見た。
暮咲さんが、小さな体でせっせと机をはこんでいる。
その姿はすごく健気(けなげ)で、可愛(かわい)らしくて、俺は微笑ましい気持ちで胸がいっぱいになった。
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