**********
電車に揺られること三駅で、俺は下車した。
まだ待ち合わせの時間まで40分以上ある。
ちょっと早くきすぎたかな。でも遅れて暮咲さんを待たせるよりは、先にきて待ってたほうがいいよな。
そんなことを考えながら、俺は改札をでた。
暮咲さんがいた。
まさかこんなに早くきているとは思わなかったので、俺はおもわず「あっ」と声をあげてしまった。
暮咲さんのほうも驚いた顔で俺のことを見ている。
「中沢くん……どうしてこんなに早く?」
「暮咲さんこそ、ずいぶん早いね。もしかして、だいぶ待ってた?」
暮咲さんは慌てて首を横に振った。この感じだと、だいぶ前から待っていたにちがいない。
なんだか申し訳ない気持ちになるけど、でもやっぱり嬉しいよな、こういうのって。
暮咲さんの出で立ちは、ピーコートに純白のマフラー、水色のフレアスカートにハイソックス、そして、手にはいつもの淡いピンクのミトン――
派手さはないけど清純な雰囲気(ふんいき)がただよっていて、いかにも暮咲さんらしい服装だった。
初めて見る暮咲さんの私服姿はとても新鮮で、いつもとは少し印象がちがって見えた。
「今日のその服、可愛いね」
俺はつい言ってしまった。
案の定、暮咲さんの顔はまたたく間に真っ赤になった。
恥ずかしそうに顔を伏せるその表情や仕草(しぐさ)はすごく可愛かったけど、これからはもっと気をつけるようにしないとな。
「ここにいてもしかたないし、少し歩こうか」
暮咲さんは、こくん、とうなずいた。
そして、左手のミトンをはずしてコートのポケットにいれると、いたずらっぽい笑みを浮かべて露(あら)わになった左手を俺に向けて差しだしてきた。
俺は笑顔を返して、そっと手を握った。
暮咲さんの手はミトンを着けていたのでいつものようには冷たくなかったけど、でもやっぱり少し冷たかった。
予定よりも時間が早いので、俺たちは公園に寄っていくことにした。
電車からも見えた駅のそばの市民公園で、中央には立派な池がある。外周がランニングコースになっていて、けっこう大きな公園だった。
俺と暮咲さんは、公園のなかを手をつないで歩いた。
……これって、いわゆる「デート」だよな?
土曜ということもあって家族連れの姿がちらほら見られたけど、静けさがただよっていて、落ち着いた雰囲気の公園だった。
俺と暮咲さんは、ゆっくりとした足取りで園内を散策した。
「あそこに猫ちゃんがくるの」
暮咲さんは俺の手を引き、ベンチの裏側へ導いた。
ベンチの裏手は茂みになっていて、外壁の役目を果たしている。
暮咲さんは「にゃあ」と可愛い声をくり返して猫を呼んだ。
茂みのなかから、わらわらと猫が這(は)いだしてきた。
ぜんぶで5匹いた。
暮咲さんによると、いつもはもっといるそうだ。
やけに人に慣れているところを見ると地域猫として誰かがちゃんと世話をしているようだ。
ミャアミャアあまえた声をだしながら俺や暮咲さんの足に頭をこすりつけてきたりして、なかなか可愛い。
猫を飼ったことはないけど、こうしてみるとけっこういいもんだな。
俺の横で、暮咲さんがすごく楽しそうな顔で笑っている。
そして俺は、気づいたんだ。
人が見せる笑顔は一種類だけじゃなくて、ひとりの人間がいくつもの笑顔を持っているってことに――
控え目に笑ったり、はにかむようにして笑ったり、いたずらっぽく微笑んだり、無邪気に笑ったり、暮咲さんのいろんな笑顔を見てきたけど、そのどれもが可憐(かれん)で、魅力的で、すばらしくて、俺はぜんぶ大好きなんだ。
きっとまだ俺の知らない笑顔を、暮咲さんは秘めているんだと思う。
だから俺は、けっして見逃したりしないように、これからもずっと暮咲さんのことを見守りつづけていたいって、心からそう願うんだ。
ひとしきり猫とたわむれたあと、俺たちは公園をあとにした。
時間的には、ちょうどいい感じだ。
暮咲さんの家に向かっているあいだも、俺たちはずっと手をつないでいた。
ときどき、どちらからともなく見つめ合っては微笑みを交わし合う。
これってやっぱりデートだよな?
なんだかすごく幸せな気分だ。
眠れないほど緊張してたのがバカみたいに思えてくる。
「ところでさ――」
俺はおもいきって訊いてみた。
「暮咲さんの叔父さんって、どんな人?」
「たぶん、中沢くんも名前くらいは聞いたことがあると思う」
「……叔父さん、なんていう名前なの?」
「雅行(まさゆき)」
暮咲雅行……聞いたことないけどな。
「えっと、あの……そうじゃなくて、ペンネームのほう」
ペンネーム?
その非日常的な響きに、俺はイヤな予感を覚えた。
俺は、おそるおそる叔父さんのペンネームを尋ねてみた。
「宇賀神哲郎(うがじん てつろう)……叔父さん、小説家なの」
「…………」
一瞬にして、血の気が引いた。
続きを読む