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雅行さんがカップを手にとり、落ち着いた仕草でコーヒーを一口(ひとくち)飲んだ。
カップをテーブルにもどす。
両親のことを話し終えたことで肩の荷がおりたのか、その表情はだいぶやわらかくなっていた。
「これは私の憶測なのですが、おそらく両親のことをきみに話すのは、香苗ちゃんなりの『いま幸せ』なんだと思います。
きみたちがいますぐ幸せになるために行動を起こしたように、香苗ちゃんも『いまが幸せ』と心から思えるようになるにはどうすればいいのか、香苗ちゃんなりに考えたのだと思います。
そしてその答えが、香苗ちゃんの過去をきみに打ち明けることだったのでしょう。
隠し事をしている後ろめたさから解放され、なぜ自分がこういう人間なのかを理解してもらわないことには、きみと一緒に『いま』という時間を心から喜ぶことはできない。きみに心をひらくことで見つけた喜びは、きみに心をひらき切らないかぎり本物の幸せにすることはできない――
香苗ちゃんはそう考えたのだと思います」
俺は、何も言葉を返せなかった。
気がつくと、歯を食いしばっていた。
泣きだしそうになるのを必死になってこらえている自分が、そこにいた。
「きみが香苗ちゃんと仲よくなってくれて、本当に嬉しく思っています。できればこれからも仲よくしてほしいと私は心から願っています。
ですが、『香苗ちゃんが背負っている重荷をきみにも半分受けもってほしい』とお願いする権利なんて私にはありません。
香苗ちゃんもきっとそのことはわかっていて、もうこれできみの心がはなれてしまうかもしれない、と覚悟を決めているはずです。
今後どうするかは、中沢くん、きみ次第(しだい)ですよ」
「…………」
「すぐに結論をだす必要はありません。自分たちで話し合って『いま幸せ』の答えを導きだしたように、きみの頭で考えて、悩んで、そしてきみ自身の力で、きみだけの答えを見つけだしてください」
俺は、何も言えなかった。
ただ歯を食いしばって、こみあげてくる何かを必死にこらえていた。
それから雅行さんは暮咲さんを呼んで、3人で談話にふけった。
何を話していたかなんて覚えてない。ほとんど雅行さんがひとりで喋(しゃべ)っていたような気がする。
暮咲さんの家をでたのは陽(ひ)が落ちはじめたころで、道に迷わないように暮咲さんが駅まで送ってくれることになった。
玄関先に見送りにでてきた雅行さんが、
「またきてくださいね」
と言った。
暮咲さんのことを見すてるな、と言われているみたいで、その言葉は重く耳に響いた。
俺と暮咲さんは、駅まで手をつないで歩いた。
その行為はすでに形式化しはじめていて、こうしていないといけないような気持ちになっていた。
駅に着いた。
俺は暮咲さんと向かい合い、無言のまま立ち尽くしていた。
「あのさ……」
やっとの思いで、言葉を口にした。
「ご両親のこと、聞いたよ。すごく驚いたし……ショックだった」
暮咲さんが悲しそうな顔で、小さくうなずいた。
そんな顔をされると、胸が痛くて、苦しくて、耐えられなくなるよ……。
「俺、なんだか気持ちの整理がつかなくて……少し考える時間がほしいんだ。だから、しばらくのあいだ、一緒に帰るのはやめよう」
暮咲さんは目を伏せて、唇を噛み締めている。
そして、悲しそうな顔のまま、こくん、とうなずいた。
俺が改札をとおって駅のホームへ行くまで、暮咲さんはずっと俺のことを見送りつづけていた。
俺がときどき振り返ると、暮咲さんは手を振ってくれた。いままでとは逆のパターンだ。
俺は笑って手を振り返した。
でも、うまく笑えていただろうか?
たぶん、できていなかったと思う。
微笑み返す暮咲さんの笑顔が、さびしげで、ぎこちなかったから……。
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