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「私の兄、つまり香苗ちゃんの父親ですが、あの人はいつも不機嫌な人で、他人を責(せ)めてばかりいました。
由香里さん――香苗ちゃんのお母さんは淑(しと)やかでやさしい方(かた)でしたが、兄はいつも理不尽(りふじん)なことで怒っては由香里さんを責め、たびたび暴力をふるっていました。
そして、香苗ちゃんが8歳のとき、兄は由香里さんを包丁で刺しころしました。香苗ちゃんが見ている前でです。
犯行の動機は、兄が由香里さんの浮気を疑ってのことでしたが、そんな事実はいっさいありませんでした。おそらく兄のことですから、理由なんてなんでもよかったのだと思います。たとえそれが嘘(うそ)やでっちあげであっても、兄にとっては正当な理由だったのです」
やめてください、それ以上聞きたくありません――
叫んだつもりだったのに、言葉がでてこなかった。
雅行さんの話はつづけられた。
「情けないことですが、私が兄の家庭内暴力を知ったのは事件が起こったあとでした。由香里さんはそんなそぶりをいっさい見せずに、私の前では仲のいい夫婦を演じていたのです。いまにして思えば表情や何気(なにげ)ない言葉のなかに助けを求めるサインがあったように思われ、後悔と罪悪感にさいなまれます。
事件後すぐに兄は逮捕されたのですが、留置場でみずからトイレットペーパーを喉(のど)につめこみ、窒息死しました。
兄は最期(さいご)まで罪を認めることなく、由香里さんを責めつづけていたそうです。
こうして被疑者死亡という最悪のかたちで、事件は幕をおろすことになったのです」
雅行さんがカップを手にとり、口へはこんだ。
すでに中身を飲み干していることに気づくと、物憂(ものう)げな仕草でカップをテーブルに置いた。
「……ですが、終わったのはあくまでも刑事上の話であって、私たちにとっては何も終わってなどいませんでした。むしろ、そこからが苦悩のはじまりだったのです。
……事件を目(ま)の当たりにした香苗ちゃんのショックは計り知れませんでした。8歳の女の子にはあまりにも過酷すぎたのです。
あれ以来、香苗ちゃんはありとあらゆる刃物に対して拒絶反応をしめすようになりました。カッターナイフやハサミでさえも怖がってしまい、触れることができないのです」
俺はいまになって、ステーキに箸(はし)の意味を知った。
食事のときに使うナイフでさえ、暮咲さんはさわることができないんだ。
「あの事件以後、香苗ちゃんは心をとざしてしまい、言葉をいっさい口にしなくなりました。
いつもひどく怯(おび)えていて、ありとあらゆる人間をおそれていました。人前にでると体が震え、蒼白(そうはく)になり、ひどいときには気をうしなって倒れることもありました。
私はこの家を購入して香苗ちゃんと暮らすようになったのですが、私に対しても心をひらくことはなく、いつも部屋にとじ籠もって震える毎日を過ごしていたのです。
香苗ちゃんは『重度の対人恐怖症』と診断されました」
頭をガツンと殴られたみたいだった。
前に、賢策とカツオに向かって「暮咲さんは心を病んでいるわけじゃない」と世間話(せけんばなし)の延長で軽々しく口にしたことを思いだす。
暮咲さんは、本当に心の病(やまい)に苦しんでいたんだ……。
俺は、後ろめたさのあまりに胸が張り裂けそうだった。
「香苗ちゃんは小学校も中学校もほとんど行っていません。行くことができなかったのです。
私は香苗ちゃんを連れて、心の傷を癒やす専門家を訪ねてまわりました。ほとんどが心理学をベースにしたカウンセラーでしたが、なかには悪霊だの守護霊だのという怪(あや)しげな人もいましたね。私たちは藁(わら)にもすがるような思いだったのです。
努力の甲斐(かい)あって、香苗ちゃんは外の世界にでられるまでになりました。高校にはいってからは、まだ一日も休まずに学校にかよっています。
香苗ちゃんは、本当によくがんばりましたよ」
雅行さんはカップを手にして、キッチンへ向かった。
コーヒーを淹(い)れてテーブルにもどってくる。
そのあいだ俺は、うなだれていることしかできなかった。
雅行さんはコーヒーを顔の前へもっていき、香りだけを味わって、カップをテーブルの上に置いた。
視線が、俺に向けられた。
「香苗ちゃんが両親のことをきみに話してほしいと言ったとき、香苗ちゃんがいかにきみを大切に想っているか、胸に痛いくらいに伝わってきましたよ。いままで両親のことを人に話したことはありませんからね。
香苗ちゃんにとってきみは、特別な存在なのです。
だから、きみにだけは知ってほしかったのだと思います」
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更新
2018年11月25日 誤植を一ヶ所訂正。