2018年8月30日木曜日

カツオの苦悩(2)

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「もしかして――」
 賢策が言った。
「ジムの人たち、カツオのことをうっかり忘れてるんじゃないかな。
 ボクシングジムって、選手や練習生を数人のトレーナーで教えるんだよね? カツオってそんなに目立つキャラじゃないから、つい教えそびれてるだけかもしれないよ」

「それはないよ。オレが鏡の前でステップを踏んでると、トレーナーがじっと見てたりするんだ。でもけっきょく何も言わないで去っていく……
 それで、オレ、とうとうがまんできなくなってトレーナーに言ったんだ、『早く次を教えてください』って。
 そしたらさげすむような目でにらまれて、『いいからやれ』って言われたよ」

 賢策が助けを求めるようにして俺のほうを向いた。
 だけど、俺にはかけられる言葉なんてなかった。

 沈黙が流れた。

 賢策は長い思案のすえに、カツオに言った。
「……何もやめることはないんじゃないかな、上機嫌もボクシングも。せっかくいい感じではじめたことなんだし、惰性(だせい)みたいなかたちでもいいから、つづけてみたほうがいいと思うな」

「惰性でなんてできないよ。いまはもう、等身大以上の自分を偽(いつわ)るのがすごく苦しいんだ」

「カツオは深刻に考えすぎだよ。もしかして上機嫌を義務のように感じてるんじゃない?
 だとしたらそれはちがうよ。僕が提唱している『上機嫌』はプラス思考とはちがうんだ。
 いいんだよ、上機嫌でいられないときは不機嫌になっても。
 僕だっていつも上機嫌なわけじゃない。つまらないことで機嫌をそこねては、怒ったり落ちこんだりしてるんだよ。ただ意識的に上機嫌を心がけることで、機嫌のいい状態を少しでも多く持とうってことなんだ。
 むずかしく考えることはない、もっと軽い気持ちでいいんだよ。
 だから、もう少しつづけてみなよ」

 カツオは、顔をうつむかせて考えこんでいる。
 やがて、あきらめのため息とともに顔を左右に振った。

「やっぱり、軽い気持ちじゃできないよ。
 オレ、真剣なんだ。ボクシングが本当に大好きで、すごく真面目(まじめ)な気持ちではじめたんだ。だから、軽い気持ちでなんてできない……
 真剣だからこそ、本当に好きだからこそ、これ以上はできないんだよ」

 どきっとした。
 好きだからこそできない――俺が心のなかでくり返してきた言葉だった。
 人の口からそれがでたのを聞くと、胸に刺さるものがある。

 賢策はため息をこぼし、肩をすくめた。
「まあ、カツオがそこまで言うのならしかたないよね。最終的にはカツオ自身が決めることなんだからね」

 カツオを見た。
 覇気(はき)のない顔でうなだれている。
 その姿に、俺が見えた。
 みじめさが胸にこみあげてきた。
 やがてそれは、いらだちに変わった。

「……やめんじゃねぇよ」

 俺の言葉で、カツオが顔をあげた。
 賢策も驚きを露(あら)わにして俺を見ている。

「やめんじゃねぇよ」
 俺はもう一度言い、カツオを見すえた。
「うまくいかないからって、思いどおりにならないからって、そんなことで逃げてんじゃねぇよ! やっと変われたのに、やっとはじめられたのに、ちょっと前に進めなくなったぐらいで、簡単に引き返してんじゃねぇよ!」

 そうだ、引き返すな――

「ボクシング、好きなんだろ? ずっとやりたくて憧(あこが)れてたんだろ? ボクシングがおまえの『いま幸せ』なんだろ?
 だったらそんな簡単に手放すんじゃねぇよ!」

 そうだ、手放すんじゃない――

「やっと変われたのに、また元にもどりたいなんて、そんな情けないこと言うな!
 何かを成しとげられたらじゃなく、ボクサーでいること、それ自体がおまえの喜びなんだろ?
 だったら、何があっても、どんなことをしてでも、とことん貫(つらぬ)きとおせよ!」

「セーチくんにはわからないよ、何もかもうまくいってるんだから……。
 どうしてオレには教えてくれないんだろう……
 なんでオレのやることはうまくいかないんだろう……
 なんでオレ、こんなにダメなんだろう……
 くそっ、なんでなんだ! どうしてなんだよ!」

「『なんで』とか『どうして』ばかり言ってんじゃねぇよ!
 それで前に進めるのかよ!
 どうせ悩むんだったら、『どうすれば』で悩めよ!」

「そうだよ誠一、それだよ!」
 賢策が身を乗りだした。
「『なぜ』とか『どうして』とか言いながら原因をさぐったところで、うまくいかなかった過去に意識が向かうだけ。そんなことをくり返したってなんの解決にもならない。
 壁にぶつかったときは『どうすれば』って問いかけるんだ! 意識の焦点(しょうてん)を『解決策』に合わせるんだよ!
 ここには脳が3つもあるんだ。絶対にいいアイデアが浮かぶに決まってるよ!」

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