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「もしかして――」
賢策が言った。
「ジムの人たち、カツオのことをうっかり忘れてるんじゃないかな。
ボクシングジムって、選手や練習生を数人のトレーナーで教えるんだよね? カツオってそんなに目立つキャラじゃないから、つい教えそびれてるだけかもしれないよ」
「それはないよ。オレが鏡の前でステップを踏んでると、トレーナーがじっと見てたりするんだ。でもけっきょく何も言わないで去っていく……
それで、オレ、とうとうがまんできなくなってトレーナーに言ったんだ、『早く次を教えてください』って。
そしたらさげすむような目でにらまれて、『いいからやれ』って言われたよ」
賢策が助けを求めるようにして俺のほうを向いた。
だけど、俺にはかけられる言葉なんてなかった。
沈黙が流れた。
賢策は長い思案のすえに、カツオに言った。
「……何もやめることはないんじゃないかな、上機嫌もボクシングも。せっかくいい感じではじめたことなんだし、惰性(だせい)みたいなかたちでもいいから、つづけてみたほうがいいと思うな」
「惰性でなんてできないよ。いまはもう、等身大以上の自分を偽(いつわ)るのがすごく苦しいんだ」
「カツオは深刻に考えすぎだよ。もしかして上機嫌を義務のように感じてるんじゃない?
だとしたらそれはちがうよ。僕が提唱している『上機嫌』はプラス思考とはちがうんだ。
いいんだよ、上機嫌でいられないときは不機嫌になっても。
僕だっていつも上機嫌なわけじゃない。つまらないことで機嫌をそこねては、怒ったり落ちこんだりしてるんだよ。ただ意識的に上機嫌を心がけることで、機嫌のいい状態を少しでも多く持とうってことなんだ。
むずかしく考えることはない、もっと軽い気持ちでいいんだよ。
だから、もう少しつづけてみなよ」
カツオは、顔をうつむかせて考えこんでいる。
やがて、あきらめのため息とともに顔を左右に振った。
「やっぱり、軽い気持ちじゃできないよ。
オレ、真剣なんだ。ボクシングが本当に大好きで、すごく真面目(まじめ)な気持ちではじめたんだ。だから、軽い気持ちでなんてできない……
真剣だからこそ、本当に好きだからこそ、これ以上はできないんだよ」
どきっとした。
好きだからこそできない――俺が心のなかでくり返してきた言葉だった。
人の口からそれがでたのを聞くと、胸に刺さるものがある。
賢策はため息をこぼし、肩をすくめた。
「まあ、カツオがそこまで言うのならしかたないよね。最終的にはカツオ自身が決めることなんだからね」
カツオを見た。
覇気(はき)のない顔でうなだれている。
その姿に、俺が見えた。
みじめさが胸にこみあげてきた。
やがてそれは、いらだちに変わった。
「……やめんじゃねぇよ」
俺の言葉で、カツオが顔をあげた。
賢策も驚きを露(あら)わにして俺を見ている。
「やめんじゃねぇよ」
俺はもう一度言い、カツオを見すえた。
「うまくいかないからって、思いどおりにならないからって、そんなことで逃げてんじゃねぇよ! やっと変われたのに、やっとはじめられたのに、ちょっと前に進めなくなったぐらいで、簡単に引き返してんじゃねぇよ!」
そうだ、引き返すな――
「ボクシング、好きなんだろ? ずっとやりたくて憧(あこが)れてたんだろ? ボクシングがおまえの『いま幸せ』なんだろ?
だったらそんな簡単に手放すんじゃねぇよ!」
そうだ、手放すんじゃない――
「やっと変われたのに、また元にもどりたいなんて、そんな情けないこと言うな!
何かを成しとげられたらじゃなく、ボクサーでいること、それ自体がおまえの喜びなんだろ?
だったら、何があっても、どんなことをしてでも、とことん貫(つらぬ)きとおせよ!」
「セーチくんにはわからないよ、何もかもうまくいってるんだから……。
どうしてオレには教えてくれないんだろう……
なんでオレのやることはうまくいかないんだろう……
なんでオレ、こんなにダメなんだろう……
くそっ、なんでなんだ! どうしてなんだよ!」
「『なんで』とか『どうして』ばかり言ってんじゃねぇよ!
それで前に進めるのかよ!
どうせ悩むんだったら、『どうすれば』で悩めよ!」
「そうだよ誠一、それだよ!」
賢策が身を乗りだした。
「『なぜ』とか『どうして』とか言いながら原因をさぐったところで、うまくいかなかった過去に意識が向かうだけ。そんなことをくり返したってなんの解決にもならない。
壁にぶつかったときは『どうすれば』って問いかけるんだ! 意識の焦点(しょうてん)を『解決策』に合わせるんだよ!
ここには脳が3つもあるんだ。絶対にいいアイデアが浮かぶに決まってるよ!」
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